『片眼の猿 One‐eyed monkeys』〜よいミステリと悪いミステリ
『片眼の猿 One‐eyed monkeys』
まず断言してしまいます。
どれだけ眉に唾を付けて読んでいただいても、著者の企みを
100パーセント見抜くのは不可能でしょう。(オビより)
ミステリとしてこんなオビをつけていいのかと思ったのだが、まあ「見抜くのは100パーセント不可能」なわけでもないし、あまりのインパクトに惹かれて買ってしまった。
同じ作者の『鬼の跫音』が面白かったから、というのもあるのだが。
そして、騙された。やられた。
詳しく書くとネタバレになるし、詳しく書かなくても、この繊細な作りの小説の中身に触れるということはそれだけでネタバレ覚悟の所業なのであるので、あえてここは「著者の企みを100パーセント見抜くのは不可能でしょう」というオビの文句を復唱しておく。
本書の内容は(意図的に)さておき、本書の「つくり」というか「構造」というか「法則性」というかに「よいミステリ*1とは何か」を考えさせられたので、ひとつ。
(ちなみに、以下に映画映画『ナンバー23』『サイン』のネタバレがあります。『片眼の猿』のネタバレはありません。)
悪いミステリ
「よいミステリ」とは何か、を論じる前に、以前私が見た「悪いミステリ」というのをご紹介したいと思う。
それが、上に公告だけ張った『ナンバー23』という、ジム・キャリー主演の映画(公式サイト)。この映画は、主人公の男性が、奇妙な本を買ったことから「23」という数字に取り憑かれ(ているという錯角を起こし*2)、色々と変な方向へ向かっていくのだが、オチが「主人公はモト記憶喪失患者で、今までの謎は、全てその記憶喪失によって引き起こされたものでした」というもので、一緒に見に行った友達と、「いやあ、あれじゃあどんな謎でも許されてミステリとして失格だよなあ」と言いあったのを覚えている。
他の例を挙げると、M・ナイト・シャマランの『サイン』も悪いミステリの範疇に入れるべきものだろう。あれだけ怪奇現象で引っ張っておいて、最後は「宇宙人のせいでした」で終わらせる無責任さ。
上に挙げた両映画に共通するのは、1点目として「予測可能性がない」*3ことだが、もう1点として「そのトリックを使ったら、どんな結論でも導き出せる」、つまり「当該トリックから導き出される結果が多様になりすぎる」(つまり、トリックが記憶喪失や宇宙人なら、どんなストーリーも作り出せる)ことをも挙げることができる。
「予測可能性がない」というのは、謎解きを楽しむのが主たる目的であるミステリにおいては、最も避けねばならない瑕疵だろう。ここはあまり議論の余地がない。
では、もう一点の「結果が多様になりすぎる」という(悪いミステリの)条件はどうだろうか。こちらは、「多様」の定義が曖昧なので、程度問題になりがちだが、予測されうる結果が多すぎて、読み手から見て予測不可能となってしまってはアウトだろう。
良いミステリ
では、良作ミステリとは何かを考える。それは果たして、「悪いミステリ」と正反対の、つまり「予測可能性があり」、「トリックから導き出される結果の範囲が狭い」ものだろうか。私の考えは違う。思うに、良いミステリとは、「ギリギリのところで悪いミステリにならずに踏みとどまっている」ミステリを言うのではないか。
なぜなら、上に挙げた「悪いミステリ」の2つの条件は、「謎解きが非常に難しくなるから悪い」という意味であるからして、その逆、つまり「予想可能性がありありで」「トリックから導き出される結果の範囲が狭い」ミステリとは、「謎解きが簡単なミステリ」ということになる。
しかし、本来のミステリとは、知的に謎解きを楽しむものであるから、お題があまりに簡単では、ミステリ本来の味が失われてしまう。だからこそ、ミステリは「悪くなりかけ」、つまり、謎解きは相当程度難しいけど、不可能じゃない、ぐらいがいいんじゃないかと思うのである。
ちなみに
じゃあ本作はどうなのかというと、オビにあるように、作者の意図を完全に理解するのは不可能だとは思うが、だから「悪いミステリ」かといえばそうでもない。予測可能性もあり、トリックからはきちんと結果が導き出せるからである。ただ、読み手が騙されてしまうだけで。。。