個独の時代のハリネズミはどのように生きるべきか

「人格」と「偶然・自由意志」

我々の人格は、どの程度が「偶然」によって形成され、どの程度が「自由意志」によって形成されるのか。
自分の親さえ選べない我々が、複雑系な我々の人格が、果てない因果律の世界に迷い込んだとき、我々の自由意志は、「我々」をどの程度決定することができるのか。
自由意志のあずかり知らぬ場所で決定された我々の人格とその形成過程を、我々はどの程度理解できるのか。ましてや他人の人格など、理解できるものなのか。それがどのように形成されたかなど、他人に知る由があるのか。
 

個々人間の絶望的なまでの差異

人々は「孤独」ではなくとも「個独」なのではないか。
「オンリーワン」は、分かり合えない個独の叫びなのではないか。
今までは、世間に存在する一定程度の「型」と、同じコミュニティで生きていかなければならないことからの「妥協」が、「個独」の問題を解決してきた。
ネットが登場し、色々な「型」に目覚め、「妥協」しなくても同じタイプの人間がつながりあえるようになった。
 
結果として、コミュニケーションは、「理解し合えるもの同士」が前提になり、一部の人は、理解できない他人を、「奴らは異常だから」「奴らは馬鹿だから」と、自己中心的にカテゴライズしたり、人格攻撃までするようになった。
 
彼らの「努力すれば分かりあえる」という前提は、「分かり合えない場合は、一方が異常」という結論を招いた。
「そもそも完全には分かり合えない」という前提を持てば、「差異がある事を認めた上での対応」ができたはずだった。「無視する」とか、「歩み寄る」とか、「住み分ける」とか。
 
だから、
 

もう少し、「理解不能な他者に対する配慮」というものがあっていいと思うのです。

「(自己中なカテゴライズやdisりを)見たくないなら見るな」と言う以前に、「他人をdisる結果になるなら最初から見ない、見ても反応しない」とか、そういう心がけをしたほうが、世界は幸せになるのではないかと、そう思うのです。