『日本語が亡びるとき』〜無意識の垂れ流しと教育の不充分


もはやブームも終息の兆しを見せているのか、どうなのか。水村美苗日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』がやってきた。
梅田望夫が持ち上げ、小飼弾が断言して絶賛した本作は、確かにプラットフォーム的価値はあるのかもしれないが*1結論においては全くもって100%何が何でも賛成できかねる

読者の皆々様は、ご自分で読まれたか色々なブログで伝え聞くところにより、なんとなくこの本の提供する「プラットフォーム」なるものについてどんなものか想像できていると思うし、例えそうでなくともこれから述べる結論に対する批評にはそれほど影響を及ぼさないのでプラットフォーム部については触れない。
 
著者の結論というのは、乱暴にまとめれば*2、「英語は少数のエリートができるようになればよい。「英語ができる」=「よい」ではない。それより日本人なら日本語を学べ。そして日本語教育は日本近代文学を読ませることに主眼を置くべきだ。」である。
私が結論に反対するのには以下に述べる3つの理由がある。それは、1.結局結論というのが著者の「無意識の垂れ流し」に他ならないこと、2.現在の日本には著者の提唱する教育を整備できるだけの人的資源が無いこと、3.文化守れ文化守れという割に、守るべき「理由」が見つからないこと。
 

本書の結論は、著者の無意識の垂れ流しである。

「『女性』と『おばさん』の違いは、『おばさん』は無意識を垂れ流すところです。*3
茂木健一郎

著者は英語ができる。つまり、現在「英語ができる」一部の人間である。また、著者は一般人より深く日本語を学んできた。そして、どうやって学んだかといえば、少女時代に近代文学を読んできたところが大きい。
この事実を、先ほど挙げた本書の「結論」と見比べて見て欲しい。おどろくほど一致している。著者は、死ってか知らずか、自らの経験を教育モデルとして掲げているのである。私が著者の結論を「無意識の垂れ流し」というのはこの理由による。
もちろん、この結論が一般性・普遍性を持ち、それが我々の将来のためになるならば、例えそれが著者の無意識であろうが何であろうが、受け入れられるべきではある。ただし、著者の経験は非常に特殊なケースであり、かつ、経験に基づく提言についても、実行したところで益があるとは思えない。この点については後の項で述べる。
まず、著者の経験の特殊性について。この本で語られている通り、著者は最も感受性豊かな時期をアメリカで過ごした。アメリカという不慣れな場所に馴染めなかった著者の心の支えが、近代日本文学だったのである。一方、日本に暮らす我々の大部分は、日常に溢れかえる日本語の多さにしばしば辟易する。日本語に「懐かしさ」などを感じることは、長期の海外滞在の後ならまだしも、ほとんどない。そのような環境に生きる者達にとって、日本文学の重要性は、著者のそれに比べると幾分か低いことだろう。つまるところ、著者の経験というのは、国策の基礎となるには多分に特殊すぎるのである。
自分の特殊な経験を、あたかも模範であり辿るべき道の如く述べて他人に押し付けようとするなんて、エゴだよそれは。
 

現在の日本には著者の提唱する教育を整備できるだけの人的資源が無い

日本の中高の英語教師*4で英検の準1級(大学生上級程度*5とされている)を持っている人の割合というのは、中学で4分の1、高校で半分程度だという(参照)。著者の提言は「日本語教育の充実」であり英語教員の能力というのは直接には関係してこないかもしれない、しかし、英語教員と日本語(国語)教員の「教師としての能力」にそれほど差があるとは思えない。ただ近代文学を読ませるだけ、とはいえ、生徒の質問に答える、生徒の理解を図る等、教員がしなければならないことは多い。現在の教員のレベルで、著者が言うような高度な教育を実現できるかどうかは甚だ疑問である。

日本語、日本文化を守るべき「理由」を語らない

英語が出来ても出世はできませんが、英語が出来ないと出世はできない。それが現実です。
村上憲郎

Googleの副社長をしてこう言わしめるほど、英語というのは必須のツールになりつつある。英語教育の水準を下げるということは、「一部のエリート」になれなかった人間の可能性を潰すことになりうるのである。果たして「日本文化」とは、そこまでして守るべき代物なのだろうか。個々の言語の良さを主張しあうより、世界中のみんなが共通の言語でお互いを理解しあった方がよりよい世界ができると私なんかは信じるわけであるのだが。本書には「文字のためのタイプライターだ」という主張が登場し、著者もこの意見に賛成しているが、では、何のための文化なのか。この点は全くといっていいほど問われていない。私にしてみれば、文化というのも個々人のために存するのであって、この点、fromdusktildawn氏の意見に賛成である。
また、著者の頭にある「日本文化」が、唯一の日本文化かどうかも疑わしい。著者は「日本文化」を、漱石や一葉を当然の如く含む代物と考えているようだが、若い世代には、日本文化をそのような物として捉えず、「ポケモン」や「トヨタ生産方式」あたりを日本文化の代表者として捉える者もいよう。日本文学の存在というのは事実として奇跡の上に成り立っているのかもしれないが、文化というのはそれほど絶対的な存在ではないのである。
 

まとめ

その他、明治の人間が日本史上最も才能と意欲を有した人間であるとか、教育は市場で手に入れられないものを扱う場所だとか、法学だって実体法学はまだまだ日本語が現役だよとか、規範性を有した文章が書かれなくなってもそれは「図書館」にあるだろう、等言いたいことはまだあるが、結論に反対する理由は前項以前に扱った3点である。
ただ、最後に述べておきたいのは、しかしこのような反論をしてもなお、この本は教養書として読むべき価値のある本だ、ということである。amazonでいえば4つ星レベル。このエントリは問題提起のため、比較的激しい論調で書いてあるが、作家としての豊富な経験に基づく結論部以外の部分は、読んでいて非常に面白かった。

*1:ただし、しばしば指摘されているように、著者の事実認識として誤っている点が多いことも併記しておく。その意味で、この本のコンテンツを無批判に前提として受け入れるのは、危険である。というか、ネット(あるいはアルファブロガー)の影響を測定するための陰謀説とかないのかしらん。

*2:乱暴にまとめた点については反省しないでもないが、微に入り細にわたってまとめたところで、結論は変わらない。

*3:Twitterでも流れてます。ちなみにこの発言は豊田講堂で開かれた講演におけるもの。

*4:とまで言えるかどうか分からないが、少なくとも愛知県の中学校では、

*5:思うに、「上級の大学(入学)程度」が正しい。