『時間を哲学する』〜人間とは「過去的」動物である〜議論の実益

人間にとって、現在は概念。未来は存在しない。過去のみが圧倒的存在感を持って立ち現れる。よって人間は過去的動物である。

というわけで、中島義道の本が読みたいと思っていたら、以前父が私の机の上に積んだ「暇なら勝手に読めばBooks」の中から彼の著作を発見した。しかも2冊。今回はその1冊目、『時間を哲学する』から。
私の専攻は、法学というPracticalのキワミ*1のような分野なので、議論自体に何らかの実益がない議論は嫌いとは言わずとも不慣れなのであります*2。「時間利用論」ならばともかく、「時間本質論」というのも、ともすれば知的満足以外に議論の実益なき議論となりがちでありましょう。しかし、実はこの本、著者の意図をはずれて、「時間論」ではなく「人間論」の本になっているのです

本書の前半は、現在までの数々の思想家の「時間」に対する考えを紹介し、そこに著者が批判を加えるという形で進行します。そしてそこで、ハイデガーをはじめとする一連の時間思想家に言い放つのが、以下の台詞。

時間を探求していたはずなのですが、「私」「意思」「自由」「死」「救い」等々時間以外のものをドンドン密輸入して、気がついてみるとじつは時間とは別のものにかかずり合っているというわけです。(p37)

ここまでは同意できる。しかし、この本を読む限り、著者も同じ轍を踏んでいると言わざるを得ない。著者は、「認識」という、人間的、あまりに人間的な概念を「時間」に「密輸入」した結果、「時間認識」、果ては「認識」という、「時間とは別のものにかかずり合って」しまっているのであります*3

著者によれば、我々にとって「時間」とは、主として「過去」のことであり、「未来」は未だ存在しないばかりか、それは絶対的な「無」であり、そして「今・現在」とは同時に多分にコンテクスチュアルで概念的な存在であると同時に「すべて(過去)の始まり」でもある。つまり、我々にとって「時間」とは多分に「過去」であり、「認識」の対象は「過去の事物」であり、「人間」は「知的に認識する動物」であり、よって我々は「過去的」動物である

しかし「時間」というのは、「認識」を経て初めて存在するものでしょうか。もちろん、この世界が、私の脳が見せる幻想だとしたら、私の認識が無ければ「時間」も存在しないかもしれない。しかし、このような懐疑的立場をとらない限り、「時間」というのは、人間の認識を超越したところにある、客観的・絶対的存在*4なのではないでしょうか。著者は「時間論」に「認識」を持ち込み、語られるべき「時間」の範囲を狭めているように思えます。

しかしこれも仕方が無いことで、カントにとっては人間の内なる理性を導き出すための「アプリオリな直観形式」が、ハイデガーにとっては「死(に望む存在)」についての議論が決定的重要性を持っていたのでありますから、「彼らにとっての時間」というものが、「アプリオリな直観形式」とか「死」とかとカップリングされていたからといって、何の問題もありません。著者にとっての「時間」が、「認識」なくして語るべき価値を持たないものであるならば、著者の関心とは別方向に、それ以上のことを求めるのは無意味なのではないか、というのが私の最近の思想ベクトルであります。

課題

思うに、我々個人というのは、ある問題を突き詰めて同じ方向に向けて語り合うことができない程度に違っているのではないでしょうか。自分の意見が他人の意見と関わりあう部分については説明責任を持つべきでしょうが、自分の意図していない方向へと更なる解説を求められても、それはできない相談というもの。ルールというのも、どのように規定するのが利益最大かだけでなく、どのように規定すれば我々の差異を最大限に尊重できるのか、という点がもっと重視されて然るべきなのでは、等々、議論するということについて激しく消極的な考えを表明しつつ、冬至の夜は更けていくのでありました。おしまい。

*1:アッー!

*2:この点について若干補足させていただくと、実益が無いというのは、あくまで「現在の私」にとって、という話。このことについては暇があればいずれまた。

*3:どうでもいいけど「かかずり合う」ってどこの言葉ですか。

*4:「存在」と呼ぶのは正しくないかもしれない。